山形城がなくなった理由7つ|天守が消えたのではなく明治期の変化が大きかった!

山形城がなくなった理由7つ|天守が消えたのではなく明治期の変化が大きかった! 観光

山形市の中心部にある霞城公園を訪れると、大きな堀や石垣が残っている一方で、姫路城や松本城のような巨大な天守が見当たらないため、「山形城はなぜなくなったのだろう」と疑問に思う人も多いでしょう。

結論からいうと、山形城は一度の戦いや大火によって突然すべてが消滅したわけではなく、江戸時代後期の城郭機能の縮小、明治維新による政治制度の変化、建物の解体、さらに陸軍施設への転用などが重なって現在の姿になりました。

しかも山形城には、もともと一般的にイメージされる天守閣が建てられていなかったため、「昔は立派な天守があったのに壊された」という理解も正確ではありません。

現在は山形城跡が霞城公園として保存され、二ノ丸東大手門や本丸一文字門周辺などが復原されているため、なくなった城というより、残された遺構を調査しながらかつての姿を取り戻している城と考えるほうが実態に近いでしょう。

ここでは山形城が現在のような城跡になった経緯を時系列で整理しながら、天守の有無、最上義光の時代、明治時代の解体、陸軍による改変、現在の復原状況まで詳しく紹介します。

山形城がなくなった理由7つ

山形県郷土館文翔館の正門と建物

山形城が現在のような姿になった背景には、ひとつだけの原因ではなく、江戸時代から明治時代にかけて起きた複数の変化があります。

特に重要なのは、最上氏の改易後に城主が頻繁に交代したこと、江戸後期には本丸の重要性が低下したこと、明治維新後に城として利用する必要がなくなったことです。

さらに明治時代には城内の建物が解体され、後には陸軍歩兵第三十二連隊の施設として利用するため本丸周辺まで大きく改変されました。

山形城の料金や観光情報だけを見ても、この歴史的な流れを知らなければ「なぜ建物がほとんど残っていないのか」は理解しにくいため、まず七つの理由から整理していきましょう。

明治維新

山形城が城としての役目を失う最大の転換点になったのが、幕藩体制を終わらせた明治維新です。

江戸時代には山形藩の政治拠点として使われていましたが、新政府の成立によって全国の城は大名が領国を統治するための施設としての意味を急速に失いました。

山形でも1869年の版籍奉還などを経て従来の藩政機構が変化し、城郭を大名の居城として維持する理由がなくなっていきます。

つまり山形城は敵軍の攻撃で陥落して消えたのではなく、日本の政治制度そのものが変わったことで城としての役割を終えていったのです。

建物の解体

城として使われなくなった山形城では、明治初期になると二ノ丸を中心に建物や櫓などの解体が進められました。

山形市の資料では、1869年の版籍奉還以降、二ノ丸内が無人となり、建物や櫓が取り壊されていった経緯が示されています。

現在の霞城公園に江戸時代の城郭建築がほとんど残っていない大きな理由は、この時期の解体にあります。

そのため「山形城がなくなった」という印象は、城郭そのものが完全消滅したというより、目に見える木造建築の多くが明治期に姿を消したことから生まれていると考えられます。

本丸の縮小

山形城の衰退は明治時代になって突然始まったわけではなく、江戸時代後期にはすでに本丸の利用が縮小していました。

18世紀後半に秋元氏が山形へ入ると、三ノ丸に新御殿が建設され、本丸は表向きの一部を除いて解体されるなど、城の中心機能が変化していきました。

大規模な本丸を日常的に維持するには人員や費用が必要であり、城主の石高や藩財政の状況によって、最上義光の時代と同じ規模を維持することは難しくなっていたと考えられます。

したがって、山形城が現在の城跡へ変化する流れは、江戸時代後期からすでに始まっていたと見ることができます。

城主の交代

山形城は最上氏の居城として発展しましたが、1622年に最上氏が改易された後は城主が何度も交代しました。

鳥居氏、保科氏、松平氏、奥平氏、堀田氏、秋元氏、水野氏などさまざまな大名が山形藩を治め、それぞれの時代に城の利用方法や整備状況も変わっていきました。

最上義光が大規模に整えた時代とは政治的な重要性や藩の規模も異なるため、広大な城郭全体を同じ状態で維持し続けることは容易ではありませんでした。

城主交代そのものが城を破壊したわけではありませんが、長期的には山形城の施設が縮小していく背景のひとつになっています。

時期 主な動き
最上氏時代 大規模な城郭を整備
1622年 最上氏が改易
鳥居氏時代 城郭を大規模改修
江戸後期 本丸の利用を縮小
明治初期 城郭建築を解体

軍用地化

山形城跡の姿を大きく変えたもうひとつの出来事が、明治時代の軍用地化です。

1896年には陸軍歩兵第三十二連隊が設置され、山形城の本丸や二ノ丸周辺が兵営として使用されるようになりました。

兵舎などを建設するため城内では土地の造成が行われ、本丸の堀を埋めたり土塁や石垣を崩したりするなど、江戸時代の城郭構造にも大きな変更が加えられました。

現在、本丸の地表部分に当時の建物遺構がほとんど残っていないのも、この軍用地としての利用が大きく影響しています。

堀の埋め立て

山形城には本丸、二ノ丸、三ノ丸を囲む大規模な堀がありましたが、近代化の過程で一部は埋め立てられました。

特に本丸の堀は陸軍施設を整備する際に埋められ、土塁や石垣も改変されたため、長い間かつての本丸の形が見えにくい状態になっていました。

一方で地下には江戸時代以前の遺構が残った場所もあり、後年の発掘調査によって城郭の構造が少しずつ明らかになっています。

現在の復原事業は、こうした発掘成果をもとに失われた堀や門周辺の形を慎重に再現する形で進められています。

時代の変化

山形城が現在のような姿になった経緯を整理すると、日本全国の城が近代社会の中で役割を失っていった歴史とも重なります。

江戸時代まで城は政治、軍事、行政の中心でしたが、明治時代には県庁や軍施設など新しい行政機関が整備され、城郭をそのまま維持する必要性が低下しました。

山形城でも従来の施設は別の用途に転用されたり撤去されたりし、近代都市の中へ取り込まれていきました。

山形城から失われたものを整理すると、次のような変化が大きかったといえます。

  • 本丸御殿の消失
  • 二ノ丸建物の解体
  • 櫓の撤去
  • 本丸堀の埋め立て
  • 土塁や石垣の改変
  • 三ノ丸の市街化
  • 軍施設への転用

山形城には天守が最初からなかった?

山形県郷土館文翔館の正門と建物

山形城について特に誤解されやすいのが、「昔あった天守が明治時代に取り壊された」というイメージです。

山形城は非常に大きな城郭でしたが、現在確認されている歴史では、姫路城や松本城のような天守閣は築かれていなかったとされています。

そのため霞城公園へ行って天守が見当たらなくても、明治時代に天守だけが消失したわけではありません。

山形城の規模や重要性を理解するには、天守の高さではなく、広大な縄張りや御殿、門、櫓、堀など城郭全体を見ることが大切です。

天守の有無

山形城は最上義光によって大規模に整備された平城ですが、本丸に一般的な天守閣は建設されなかったとされています。

本丸の重要施設は天守ではなく本丸御殿であり、政治や儀式を行う場所として機能していました。

城という言葉から巨大な天守を想像しやすいものの、全国すべての城に天守が存在したわけではありません。

山形城の場合も、天守がないことと城郭としての規模や重要性が小さいことはまったく別の話です。

項目 山形城の特徴
城の形式 平城
天守 建造されなかったとされる
本丸の中心施設 本丸御殿
防御施設 堀・土塁・石垣・門・櫓
現在 霞城公園として保存

本丸御殿

天守を持たない山形城で最も重要な建築物のひとつだったのが本丸御殿です。

本丸御殿は藩主が政治や儀礼を行うための中心施設で、山形城を理解するうえでは天守以上に注目したい存在です。

現在は建物そのものが残っておらず、間取りを示す資料は確認されているものの、建物の外観を正確に示す立面図などの史料が不足しています。

このため歴史的根拠が十分ではない建物を想像で建てるのではなく、発掘調査やデジタル技術などを活用して往時の姿を伝える取り組みが進められています。

大城郭の実像

山形城の魅力は天守ではなく、本丸、二ノ丸、三ノ丸を三重に囲む大規模な縄張りにあります。

最上義光の時代に整備された城郭は東北地方でも屈指の規模を持ち、城下町を含めた山形の政治と都市形成に大きな影響を与えました。

現在の霞城公園だけを見ると城の全貌を想像しにくいものの、かつての三ノ丸は現在の公園よりはるかに広い範囲へ広がっていました。

山形城を見る際は、次の施設や痕跡に注目すると天守がなくても巨大な城だったことを理解しやすくなります。

  • 二ノ丸の堀
  • 二ノ丸土塁
  • 二ノ丸東大手門
  • 本丸一文字門
  • 本丸堀
  • 三ノ丸土塁跡

最上義光の山形城はどれほど大きかった?

レトロな外観の旧山形師範学校本館

山形城の歴史を知るうえで欠かせない人物が、戦国大名として知られる最上義光です。

山形城の起源自体は南北朝時代までさかのぼりますが、現在知られている大規模な城郭の原型を整えた人物として最上義光が特に重要です。

義光は山形を政治や軍事の拠点として発展させ、城下町の整備にも大きな影響を与えました。

現在の霞城公園だけでは想像しにくい山形城の全盛期を知ると、「なくなった」という印象とは違った城の価値が見えてきます。

築城の始まり

山形城の歴史は、南北朝時代の1356年に羽州探題として山形へ入った斯波兼頼が翌年から築城を始めたことに由来すると伝えられています。

兼頼の子孫は後に最上氏を名乗るようになり、山形を本拠として勢力を広げました。

その後、最上氏第11代当主の最上義光が戦国時代から江戸時代初期にかけて城郭を大幅に整備しました。

つまり山形城は最上義光がゼロから突然築いた城ではなく、それ以前から存在した拠点を大規模な近世城郭へ発展させたものです。

最上義光の整備

最上義光は戦国時代の東北地方で勢力を拡大し、山形城についても城郭や城下町を大きく整備しました。

関ヶ原の戦いと同じ1600年には、上杉方との間で長谷堂合戦が起こり、最上氏は山形を守り抜いています。

その後に最上氏の領地は大きくなり、山形城も大名の本拠にふさわしい広大な城郭として発展しました。

山形城が東北地方有数の規模を持つ城として知られる背景には、義光の時代に行われた大規模な整備があります。

年代 主な出来事
1356年 斯波兼頼が山形へ入部
1357年頃 山形城築城の始まり
16世紀後半 最上義光が勢力を拡大
1600年 長谷堂合戦
江戸時代初期 大城郭として発展

輪郭式の平城

山形城は本丸の外側を二ノ丸、さらにその外側を三ノ丸が囲む輪郭式と呼ばれる構造を持つ平城でした。

山城のように急峻な山の上へ築くのではなく平地に広大な区域を確保し、堀や土塁などによって防御する構造が特徴です。

現在残る霞城公園は主に本丸と二ノ丸を中心とした区域で、かつての三ノ丸は現在の市街地へ広がっていました。

往時の山形城を想像する際には、公園だけを城の全範囲だと思わず、周辺市街地まで含む巨大な城郭だったことを意識すると理解しやすくなります。

  • 本丸を中心に配置
  • 外側を二ノ丸が囲む
  • さらに三ノ丸が囲む
  • 堀と土塁で防御
  • 平地に広く展開
  • 城下町と一体化

明治時代に山形城で何が起きた?

山形市七日町の商店街通り

山形城が現在のように建物の少ない城跡になった経緯を理解するうえで、最も重要なのが明治時代です。

明治維新によって藩の居城としての役割を終えると、城郭建築は維持されなくなり、二ノ丸を中心として多くの建物が撤去されました。

その後は陸軍施設として利用されることになり、兵舎建設のため本丸の堀や土塁なども大きく改変されました。

山形城がなくなった理由を一言で説明するなら、「明治時代に城としての用途を失い、建物撤去と軍用地化が進んだため」と整理するのが最も分かりやすいでしょう。

版籍奉還

1869年に版籍奉還が行われると、大名が領地と領民を支配する従来の仕組みは大きく転換しました。

山形城でも藩主の居城として城郭を維持する意味が薄れ、二ノ丸内は無人化し、建物や櫓が取り壊されていきました。

1871年の廃藩置県によって藩そのものも廃止され、全国的に近世城郭が行政の中心として使われてきた時代は終わります。

山形城も例外ではなく、この政治制度の変化によって近世城郭としての歴史に区切りが付けられました。

陸軍の入営

1896年には陸軍歩兵第三十二連隊が設置され、山形城跡は軍用地として本格的に利用されるようになりました。

広大でまとまった土地を持つ旧城郭は軍施設を置く場所として利用しやすく、全国各地でも城跡が軍用地へ転用された例があります。

山形城では兵舎などを設けるため、城郭時代の地形や施設がそのまま保存されたわけではありません。

この軍用地化によって本丸内部まで大きな改変を受けたことが、現在まで江戸時代の建物が残らなかった大きな要因になっています。

時期 山形城の状況
江戸時代 山形藩の居城
1869年 版籍奉還
明治初期 城内建築を撤去
1896年 歩兵第三十二連隊を設置
軍用地時代 本丸周辺を大幅改変

城郭の改変

陸軍施設の建設では、江戸時代の城郭を保存することより軍事施設として使いやすい土地へ変更することが優先されました。

そのため本丸堀の埋め立てや土塁の削平、石垣の撤去などが行われ、現在では地上から確認できない遺構も少なくありません。

一方で埋め立てられた場所では地下に古い遺構が残る場合があり、現代の発掘調査によってかつての構造が再確認されています。

明治時代に大きく変化した主な部分を整理すると次のようになります。

  • 本丸堀
  • 本丸土塁
  • 一部の石垣
  • 城内建物
  • 門周辺
  • 本丸地表面

現在の霞城公園で山形城の姿は見られる?

レトロな外観の旧山形師範学校本館

山形城は江戸時代の建築物の多くを失いましたが、城そのものの歴史まで消えてしまったわけではありません。

戦後は旧城郭の本丸と二ノ丸を中心とした区域が霞城公園として整備され、現在では山形市を代表する歴史観光スポットになっています。

1986年には国の史跡に指定され、その後は発掘調査の成果をもとに門や石垣、堀などの復原整備が進められてきました。

完成した天守を見るタイプの城ではなく、残された遺構と復原施設から何百年にもわたる変化を読み取る城跡として楽しむのがおすすめです。

二ノ丸東大手門

現在の霞城公園で特に城らしい景観を感じられる場所が二ノ丸東大手門です。

かつて山形城の主要な入口として機能していた門で、現在の建物は歴史資料や調査結果などをもとに復原されたものです。

門だけでなく周辺の石垣や堀も一緒に見ることで、平城だった山形城がどのように防御されていたのかをイメージしやすくなります。

山形駅側から霞城公園へ向かう観光客にとっても、山形城らしい雰囲気を感じやすい代表的なスポットです。

本丸一文字門

本丸一文字門周辺では、長期間にわたる発掘調査の成果をもとに石垣、大手橋、高麗門、土塀などの復原整備が行われています。

明治時代には本丸堀が埋められていましたが、現代になって再び城郭時代の姿へ近づける取り組みが進められました。

完全に新しい観光施設を自由に建築しているのではなく、地下遺構や絵図など歴史的な根拠を検討しながら整備している点が特徴です。

現在確認できる主な山形城関連施設や遺構を整理すると、次のようになります。

場所 見どころ
二ノ丸東大手門 復原された城門
二ノ丸堀 城郭の規模を実感
本丸一文字門 復原整備が進む区域
本丸御殿跡 発掘調査対象
三ノ丸土塁跡 旧城域を示す遺構

復原事業

山形城では現在も歴史的な城郭の姿を後世へ伝えるための保存と整備が続けられています。

ただし、資料が不足している建造物については、外観を推測だけで再建するのではなく、発掘や史料研究によって確かな情報を得ることが重要視されています。

特に本丸御殿は間取りに関する情報がある一方、正確な外観を示す資料が十分ではないため、実物大の建築物として簡単に復元できるわけではありません。

山形城を訪れる際は、次のような視点で歩くと復原途中だからこその面白さを感じやすくなります。

  • 江戸時代の遺構を見る
  • 明治期の改変を知る
  • 復原された門を見る
  • 堀の位置を確認する
  • 本丸跡を歩く
  • 城下町の広がりを想像する

山形城がなくなった歴史を知れば霞城公園の見方が変わる

山形県総合文化芸術館やまぎん県民ホール外観

山形城がなぜなくなったのかを考える際は、「戦争で焼け落ちた城」という単純なイメージを持たないことが重要です。

山形城は江戸時代後期から本丸の利用が縮小し、明治維新によって藩の居城としての役割を終えた後、建物や櫓が解体されました。

さらに1896年には陸軍歩兵第三十二連隊が置かれ、兵営整備によって本丸の堀、土塁、石垣などが改変されたため、江戸時代の城郭がそのまま現在まで残ることはありませんでした。

また、山形城にはもともと一般的な意味での天守閣が建てられていなかったため、現在天守がないことを「天守が壊されてなくなった」と考えるのも正確ではありません。

一方で二ノ丸の堀や土塁、石垣などは現在まで残り、二ノ丸東大手門や本丸一文字門周辺では発掘成果にもとづいた復原整備が進められています。

そのため現在の山形城は完全に消滅した城ではなく、江戸時代の遺構、明治時代の変化、現代の復原事業という複数の歴史が同じ場所に重なった城跡だといえるでしょう。

霞城公園を訪れるときは天守の有無だけで判断せず、広大な堀や土塁、門、本丸跡へ目を向けることで、最上義光が整えた東北有数の大城郭だった山形城の姿をより深く想像できます。